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2018.02.20

“到东京奥运的壮观场面” 第二届 "东京塔" - 塔博士的執念 -

  • Category culture

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東京オリンピックへの光景 第二回「東京タワー」~塔博士の執念~

 

昭和39 (1964) 年、東京オリンピックのときに姿を現した東海道新幹線、東名・名神高速道路といった巨大インフラ工事のパイオニアが東京タワーであった。

当時の東京全景の航空写真を見る時、この塔の凄さがわかる。

一面真っ平らな首都に群を抜く威容を誇る。333メートルの自立鉄塔は、世界一の高さである。周囲の景観と比した時に、その強大さは可笑しくさえある。

 

何故これほどの高さが必要だったか?

東京タワーの建設の目的は、テレビの総合電波塔を作り、関東一円をカバーすることにあった。そして、込められたもうひとつの目的は、何が何でも、世界で一番高い電波塔を国産技術で作り上げることにあった。

 

「おい、あれが世界一の東京タワーだ!」と胸を張り、敗戦によって、三等国民のコンプレックスを背負った日本人に誇りを取り戻してもらうことにあった。

最も重い使命を背負ったのは設計者の早稲田大学建築学科教授の内藤多仲だ。

別名塔博士と呼ばれ、焼失した名古屋タワーや通天閣の設計者として知られる。

内藤先生は3600トンの鋼材を使う東京タワーの大鉄塔をミリ単位で設計した。

パソコンもない時代に寸分の狂いもなく巨大鉄塔の図面を引いたのである。

私はNHKにその設計図すべてを運びこんでもらったが、何百枚にも及び、広いスタジオを埋め尽くした。

青焼き図面を眺めながら、内藤先生の執念が立ち上ってくる思いがしたのだ。

物事は始まりが何よりも難しい。

 

電波塔の後継である東京スカイツリーは最先端技術を尽くし観光名所になったが、私は建設機材もままならなかった時代に作られた東京タワーへの愛着がいまだ強いのである。

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